現在国内で配布されているポスティングチラシは、江戸時代の引き札を起源として、大正時代にチラシやビラへと名称が変化しました。

大正時代まで宣伝方法として利用されていたチラシは、昭和に入るとともに金融恐慌や戦争の煽りを受け、商業広告としての性質を失い、戦争に利用されるものへと変化したのです。

しかし、戦後の復興や経済成長とともにチラシは本来の商業広告としての性質を取り戻し、今日の日本で配布されるチラシへと繋がりました。

今回は、激動の変化を遂げた昭和時代のポスティングチラシについて当時の社会情勢に沿って解説します。

ポスティングチラシは昭和前期に衰退

大正時代に全国の百貨店が中間層も利用できる商業施設へと変化し、百貨店が配布したチラシによって、多くの顧客が来店し経済が潤いました。

また、チラシは顧客を呼び込むためのキャッチコピーが記載されるようになり、現在のチラシに近い形態を持ち始めたのです。

しかし、昭和に入り発生した恐慌や、後に続く戦争によってチラシは徐々に衰退し、性質も大きく変容しますので、次で詳しく解説していきます。

・昭和恐慌による衰退
・戦争による商業用チラシの衰退

昭和恐慌による衰退

大正時代にチラシは、百貨店によって隆盛を極め、顧客を呼び込む効果が高い宣伝方法となりました。

しかし、チラシは昭和恐慌により衰退してしまうのです。

大正後期に発生した関東大震災によって決済できない手形が大量に発生したことや、手形の処理を巡って当時の大臣が失言し、銀行に取り付け騒ぎが発生し金融恐慌が発生しました。

金融恐慌は、銀行への救済措置により静まりました。

日本は産業を合理化し、成長している産業を支えることや金を好景気のアメリカに輸出し不況からの脱却を図りました。

しかし、金の輸出を解禁したと同時期に、世界恐慌が発生し国内から金が流出し、輸入過多による国内生産の圧迫が原因となり日本は大不況に陥ったのです。

この不況により国民の消費が落ち込み、消費を煽るチラシが効果を持たなくなりました。

昭和に発生した一連の恐慌によってチラシは衰退の一途をたどったのです。

戦争による商業用チラシの衰退

商業用のチラシは昭和の15年戦争により衰退し、商業宣伝としての性質を失い、戦争での世論を操作するプロパガンダや自国軍を宣伝する手段となりました。

満州事変・日中戦争・太平洋戦争では言論統制が行われたことで、チラシの内容に検閲が入り、自由にチラシを作成することが困難になりました。

戦争の標語やスローガンを掲載すれば、商品などの広告を新聞に載せることが許可されたため、宣伝広告は一部見られましたが、戦時中の厳しい生活の中で広告を展開することは難しく、商業用チラシは衰退したのです。

一方で、チラシは戦争においてプロパガンダなどを伝える「伝単」や自国を宣伝する手段として使用されました。

1932年(昭和7年)に成立した満州国では、満州国をPRするチラシが多く制作され、配布されました。

また、伝単が利用され始めたのは1937年の日中戦争からです。

満州事変後の上海で勃発した上海事変を鎮めるため上海へ侵攻した日本軍は、上海市民に降伏をすすめる伝単や、蒋介石を揶揄する伝単を配布しました。

日中戦争の伝単で効果を上げた日本は、東南アジアやニューギニアなどでも散布しましたが、日本軍の戦況が悪化するとともに伝単の効果は下がったそうです。

最近でもイラク戦争でイラク軍に伝単を散布することで降伏者の増加に役立たせるなど、伝単の歴史について解説した記事も作っています。

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ポスティングチラシは戦後の高度経済成長とともに復活

昭和において、チラシ広告が再び盛んになるのは、15年続いた戦争からの復興、高度経済成長期です。

復興期は紙が貴重であり、カラーのものはほとんど見られませんでした。

カラフルなチラシ広告は1959年、皇太子ご成婚を境に増加し、テレビがモノクロからカラー化したことも相まって、結婚を伝えるチラシもカラーで対応しました。

高度経済成長期には人々の暮らしは裕福なものとなり、企業経営にマーケティング手法が取り入れられたことや、商業では地域に根付いた広告を活発化させたことが要因となりチラシが復活を遂げました。

とくに、チラシの躍進を進めたのがスーパーマーケットです。

高度経済成長期の増大した需要に応えるために誕生したスーパーの広告方法は、はじめからチラシ広告が中心であり、多彩な商品のラインナップを消費者に伝えていたのです。

このチラシ広告の隆盛を牽引したのはダイエーでした。

ダイエーは1957年(昭和32年)大阪に第1号店を開業し、数年で東京に展開するまで成長しました。

ダイエーは、当時貴重な資源であった紙を自由に使用できる新聞社と協力して、新聞の余り紙でチラシを作成し、手配りや新聞折込を利用して配布を始めたのです。

ダイエーはチラシを使ってメーカーが製造した商品を低価格かつ大量販売で展開し、国民の消費をさらに加速させたため、宣伝に利用されるチラシの数も増加しました。

さらには、経済の成長に合わせて多くの業種が誕生し、広告のニーズが増えたことも、チラシの配布量を増加させたといわれています。

1965年(昭和40年)頃には大阪でチラシをポスティングする専門の業者が誕生したといわれており、ここから現在のポスティング業に繋がったのです。

ほかにも、集合住宅の郵便受箱義務化もポスティングが普及した要因のひとつになったなど、ポスティングと関連がある郵便受けの歴史についての記事も読んでみてください。

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ポスティングチラシの歴史を作った昭和時代のチラシについて解説まとめ

・昭和前期に発生した昭和恐慌によって国内の消費が落ち込み、商品やサービスの消費を喚起するチラシが衰退しました。

・15年戦争中の言論統制によって、チラシは商業宣伝の性質を失い、戦争のプロパガンダである伝単として利用されました。

・チラシは戦後の高度経済成長により商業宣伝としての性質を取り戻し、スーパーマーケットの誕生により大きく躍進しました。

 

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渡辺 修平(Shuhei Watanabe)
渡辺 修平(Shuhei Watanabe)