現在広告媒体でありポスティングに利用されているビラやチラシは、第二次世界大戦以前は広告だけではなく、軍事的な理由でも使われていました。

戦時中に軍事的な理由で使用されたビラは「伝単」と言われ、現在では当時の社会情勢を知る手がかりとして収集や研究が行われています。

そこで今回の記事では、戦争で使われていた伝単について時代や場所に分けてご紹介しますので、チラシの歴史を知る参考にしてください。

またポスティングに関する情報を網羅した記事がこちらにありますので、他にも知りたいことがあれば確認してみてください。

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ポスティングに利用されず戦争に利用された伝単とは?

伝単とは中国語で物事を伝える紙片という意味を語源としています。

そして、戦時中において使用された宣伝謀略用のチラシを指し、主に以下の目的で配布されました。

  • 敵兵の降伏や戦意喪失
  • 敵軍からの情報操作を中和
  • 攻撃の予告

敵兵の降伏や戦意喪失を狙った伝単は、敵の軍部を非難する内容のものや敵が劣勢である状況を伝えて降伏を迫るものが多いです。

場合によって、嘘の情報や不確定な情報を記載して相手を混乱させる手法も取られました。

例えば、敵兵の妻や恋人が、自国で浮気する様子を描いたものや、敵地で現地民と浮気をする敵兵といったピンクチラシまがいのものです。

また、第二次世界大戦中にアメリカ軍が国内に撒いた伝単の中には、空襲を事前に予告して避難するよう呼びかけるものもありました。

敵軍が撒いた伝単を手にした庶民が伝単の内容によって攪乱するのを防ぐために、自国の戦況を伝えるチラシを散布し、敵からの情報操作を中和するものもありました。

ポスティング用とは違う戦争用のビラ「伝単」の歴史

伝単は戦時中、長期間にわたって利用され続けてきた歴史があり、現在でも局地的な戦いで使用された例がある程です。

伝単の歴史を世界と日本の2つの視点で紹介します。

・世界における伝単の歴史
・日本における伝単の歴史

世界における伝単の歴史

伝単が配布され始めたのは1600年代イギリスの内戦からです。

当時は敵の戦意を喪失させるよりも敵軍と戦うための動機付けとして自軍に使用されました。

敵の戦意を喪失させるために使用が始まったのは1870年の普仏戦争で、当時のフランス軍が敵対するプロイセン軍に向けて気球を使って撒いたと言われています。

当初気球や手で配られた伝単は、技術の発展により、敵国の庶民や敵兵の心理を操作する画期的な方法として大量に印刷され無作為に配布されました。

次に1912年開戦の伊土戦争では、飛行機を使って撒かれ始め、1914年より始まった第一次世界大戦では、参加国が実用化された軍用飛行機を使って散布したのです。

大量に撒かれた伝単によって多くの敵兵が戦意を喪失し、降伏したため、一定の効果が上がったといわれています。

このような結果から、1939年より始まった第二次世界大戦では、紛争に参加した全ての国で印刷数が増加し、数億枚もの伝単が散布されたのです。

第二次世界大戦後、チラシは元の販促用の広告物へと戻りました。

しかし、ベトナム・湾岸戦争といった大戦以降に発生した局地的な戦いでは、伝単が利用されました。

最近では、イラク戦争においてイラク軍に対して伝単を散布することで降伏者の増加に役立たせ、2015年のシリアではテロ組織への参加阻止を狙って使用されました。

チラシは古代エジプトのパピルス紙で作られたものが起源で、印刷方法や内容の移り変わりなど、古代から現代までの海外におけるポスティング用のチラシの歴史について紹介した記事も作っています。

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日本における伝単の歴史

国内で伝単を使った謀略活動が始まったのは1937年の日中戦争です。

上海で勃発した第二次上海事変に苦戦を強いられた軍は上海への侵攻を決定しました。

上海への侵攻と共に中国の庶民に対して降伏を促す伝単や、中国政府の蒋介石を揶揄する内容のものが多く散布され、手に取った市民が数万人規模で降伏したそうです。

当時、度重なる交戦により自国兵が消耗することを少しでも避けたい軍にとって、武力の行使なく数万人が降伏した結果を得られたのは好都合だったといえるでしょう。

また、開戦当初、軍が制作した伝単は単純な印刷方法を採用した活字のみの簡素な形式であったため、狙った効果は上げられませんでした。

そこで軍は当時最新の印刷技術を使ったカラー刷りを作成し散布を始めたところ、高い効果を上げられたため、戦後軍が制作した伝単はカラーが大半を占めることとなりました。

日本軍は中国の他にも戦地であったフィリピンなどの東南アジアや、ニューギニアなどでも中国と同様に散布しましたが、戦況の悪化に比例するように効果は低下したのです。

アメリカ軍による日本の制圧が高まった際、アメリカ軍は日本国民に向けて空襲の予告と避難を呼びかけるチラシを散布しました。

当時、空襲予告チラシを警察に届けなければ罰金または拘留されたことや、刑罰や反逆者と呼ばれることを恐れた当時の庶民は、伝単を拾わなかったそうです。

しかし、一部の人により収集・保管されており、現在では当時の世相を知る手がかりとして研究されています。

そして日本の敗戦が決まった後、戦勝国の軍用機から敗戦を知らせる伝単が各戦地に撒かれ、戦地の日本兵は伝単から敗戦の事実を知ったのです。

第二次世界大戦が終戦して以降、伝単は再びチラシ(広告)として扱われることになりました。

しかしながら、現在でも世界のどこかで局地的な戦争が起きるたびに伝単は活用されているのです。

そのほか、大正時代には、それまでの活版印刷よりも効率的かつ多彩な印刷が可能な「オフセット印刷」が導入されチラシ形式が変化したなど、大正時代に着目したポスティングチラシの歴史について詳しく解説した記事もあります。

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ポスティングに利用されるビラは戦争でも使われていた!伝単の歴史を解説まとめ

・伝単は敵の降伏や戦意喪失を狙って製作されたチラシであり、第二次世界大戦時の日本ではアメリカ軍により攻撃を予告するものが大量に撒かれました。

・伝単は元々自軍の士気を高める目的で作成されましたが、イギリスの内戦以降に敵兵の降伏を狙った謀略用のチラシへと変化し、第一次世界大戦以降に大量かつ無作為に散布されました。

・第二次世界大戦以降、チラシは広告物へと戻りましたが、局地的な戦いが発生する度に伝単が使用されています。

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渡辺 修平(Shuhei Watanabe)
渡辺 修平(Shuhei Watanabe)